10
大学の時計台をバックに、腕に大学の腕章をしている女性がいたので、記念にわれらがジイさんたちの写真を撮影してもらった。
大学の構内を歩いているときは、雨がやんでいたのでよかった。
この後、歩き出したら、また雨が降ってきた。
俗にいう「立教通り」で昔を思わせるのは「スミタ帽子店」の文字だけだった。
その向かい側はコーヒー店だったのではなかったか?などと昔のことを考えていた。
こうして歩いて行った先は、マージャン店、雀荘である。

学生時代は、麻雀ができると付き合いの幅が広がった気がした。
大学1年生のときは、友人たちと徹夜トランプと称して、「大貧民ゲーム」をやりまくっていた時期もあったが、2年生のときに、何がきっかけだったか覚えていないが、麻雀をやるようになったのだった。
そのメンバーは、この卓球同好会のメンバーであることが多かった。
主に1年先輩か1年後輩とだったが、その理由は、同期の仲間で麻雀をやるメンバーは私のほかに1人Y君しかいなかったからだ。
それもそのはず、私たちの学年だけサークル同期の仲間は6人だけ、しかも男だけ。
他の学年のように女性メンバーはおらず、6人という少人数なのに、しっかりしたスクラムは組めないという顔ぶれであった。(人のことは言えないが…)
他の学年は自分たちで楽しく麻雀をやっているのに、私やYは他の学年の人々に混ぜてもらわないと遊べなかったのだ。
まあ、それはこの日も同じだったかもしれない。
ここでは、T先輩、H先輩とほかにもう一人の新たに3人が合流して8人で2卓を囲む予定だった。
ところが、一人、家庭の事情でどうしても参加できなくなってしまったのは、残念だった。
予約してあった店に行ってみると、「たばこを吸うメンバーはいますか?」と聞かれた。
集まったメンバー7人とも顔を見合わせたが、手を挙げる者はいなかった。
さすが健康に気を付けている高齢者たちだ。
「それならば、別の階をご案内します。」だって。
時代が変わったねえ。今はこんな配慮をするんだ。
かつては、雀荘ではモクモクした煙の中で麻雀をするのが常だった。
私のようにタバコを吸わない人間は、受動喫煙を強いられた時代であった。
さて、7人での麻雀だが、4人と3人に分かれてやることになった。
じゃんけんをすると、私は、Tさん、Mさんとともに3人の方になった。
店員が萬子の牌を片付け、3人麻雀を始めた。
3人麻雀だと上がったときの点棒の数え方などが通常と違うから、戸惑いがあった。
それでも、やっぱり相手がいる麻雀は、パソコンやスマホでやるものよりはるかに楽しい。
結果は、こんなもの。

負けもありましたが、最終的に勝たせていただきました。
11
雀荘を出ると、雨が強く降っていた。
その中を歩いて、懇親会の会場に移動した。
そこは、イタリアン・レストラン。
会場である上の階に行くと、窓からさら地になりつつある「白雲閣」の跡地が見えた。
なくなった寂しさを、雨がなおさらつのらせる。

懇親会に参加したのは、私を含めて15人。

幹事のMさんが、初めのあいさつで、このように卓球・麻雀・飲み会を楽しむ会をしようと言い出したのは、彼と同時代に部長を務めたKさんだったという。
Kさんは、当時うちの大学のエースだったが、人柄も好かれ、卓球も好きだが、麻雀も酒も好きな人だった。
ところが、今から数年前、そのKさんが亡くなってしまった。
そして、その後KさんやMさんと同期のHさんも亡くなった。
2人をしのんで献杯をし、その後で乾杯をしたいというMさんの提案にしたがって、献杯そして乾杯をした。
鬼籍に入った人はほかにもいるかもしれない。
こうして、この会に参加できているだけでも貴重なことなのかもしれない。

長岡から来ている先輩もいた。
私より3年先輩で、学生当時あまり顔を出してくださらなかったので、思い出もないがこうして同じ新潟県から参加しているということで急に親近感がわいた。
隣の席になった女性が、腰椎の椎間板ヘルニアで苦しんでいるという話だったので、40歳過ぎの私の経験談を話したりした。
近況報告では、みな、意識的に短めに話をやめられるのが、他のメンバーに対する思いやりとしてすばらしいな、と思った。
腫瘍だとか癌だとか、そんな話もあったが、それでもこの席に加われているということは、戦っている、乗り越えている、ということ。
人生を感じます。
驚きの声が上がったのは、秋田から来た方のクマの出現の話。
「店が自動ドアなのだけど、もしクマが来た場合、自動ドアだと勝手に開いて入って来られるとまずいので、電源を切ってある。手動で開けようとすると、ドアが重くて手…。」
他の参加者も、秋田でクマ出現のニュースを聞くたびに、心配しているとうなずいていた。
場を盛り上げたのは、1年後輩のUさん。
彼は、20年前に拡大同窓会を行った時の幹事長だった。
それだけに、企画力と実行力、周囲の人を楽しませる力を持っている。
あらかじめこの会に参加するメンバーを知り、その一人一人を称えるメッセージを用意していた。
大したもんだ。さすがだね。
途中から、司会進行的な役割まで果たし始めた。
でも、謙虚でユーモラス、本当にいい性格をしていると感心する。
そのUさんが、人数分用意してきたのが、校歌と第一応援歌の歌詞が印刷された紙。
幹事的な仕事をさせると、一級品の彼の配慮である。

最後にこれを歌いたいと提案し、第一応援歌は一番まで歌った。
校歌の方は、一番ではもったいないので、私は三番まで声を上げた。
学生時代より母校愛が高まっている私。

人生の中で、ほんの4年にすぎない学生時代。
ここに集まった顔ぶれとは、多くて3年、中には1年しか重ならない人もいた。
なのに、この仲間意識の強いのはなぜなのだろう。
その意識がうれしい会だった。
12
あっという間に3時間が過ぎ、お開きとなった。
今度はもっと多くの会員を互いに誘って、また会いましょう、との言葉があった。
駅に向かって歩くのだが、やっぱり右脚ふくらはぎの下が痛い。
椅子に座っているときは全く痛まないのだが、歩くのがきつい。。
途中で、Mさん、Bさん、Cさんと別れた。
この3人は、この後さらにカラオケに行く予定になっていた。
タフだね。卓球に始まって、すべてやり切るとは。
私は、痛い脚を引きずるようにして歩き、池袋のJRの駅までたどり着いたが、なんと電車のダイヤが乱れていた。
おいおい、大宮で乗る新幹線に間に合うのか?
不安になった。
私が乗る予定の埼京線の電車は、22分遅れだとか。
後輩のUさんと一緒にいたのだが、彼は首都圏に住んでいるので交通事情は詳しい。
「50foxさん、このまま埼京線の電車を待つのじゃなくて、来る電車に乗りましょう。次は、湘南新宿ラインの電車が来ます。これ、埼京線より早く行けますよ、乗りましょう。」
と、多少うとい私に教え、促してくれた。
ありがたや、ありがたや。
たしかに、来た電車は混んではいたが、早く大宮駅に着いた。
Uさんに感謝したら、彼は大宮駅で私が新幹線に乗り込むまで見送る、と言う。
そこまでしなくてもいいよ、と断ったが、彼は入場券を買いに行った。

その誠意が、とても心にしみた。
ホントにいいやつだなあ。

やがて、ホームには上越新幹線とき347号新潟行きが入線し、Uさんとは握手して別れた。
13
念のために事前に指定席をとっていた私は、座って帰途に着くことができた。

ほっとしたら、急に、酔いと睡眠不足からくる疲れがどっと出てきた。
おまけに頭痛まで出てきたが、1時間くらいうつらうつらした。
順調に新潟で乗り換え、最終の各駅停車に乗り込んだ。

最寄り駅に着くと、雨が強く降っていた。
傘をさしても、靴は濡れた。
右足が痛いが歩かないと帰れない。
雨にも痛みにも悩まされながら、苦しい思いで歩いた私だったが、不思議に心は晴れ晴れした気分だった。
家には夜中0時30分、無事にたどり着いた。
ふう。
朝5時半から夜中の0時半までかかって、19時間の東京日帰り旅が終わった。
Mさんから貴重な機会をもらい、楽しい時間を過ごせたことに感謝したい。
そして、今回かかわってくれたすべての人にも。
Uさんも、最後までありがとう。
懐かしき学生時代のつながりを求めて、東京まで日帰り旅をした。
とてもよいふれあいに会え、やり切った、楽しみ切った、1日となったのであった。